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米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実

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宇宙初飛行から40年。 人類は月をめざした!!60年代、デットヒートを演じた米ソのトップガンは70年代軌道上で握手し数々の危機を手動でくぐり抜け、大気圏のわずか2度の間隙から帰還した。


人類が初めて月に降りた夏、海辺のホテルロビーの大きな木目フレームのカラーテレビはなぜか白黒で、とぎれとぎれに白くまぶしい灼熱の月世界を写し出していた。今でもプールサイドで足の裏を焼かれ、水面の反射に目を細め、カルキの匂いを少し吸い込むと、僕の下肺深部にホンノわずか郭清しきれずに残る胸苦しい夏の少年がフラッシュバックする。

閑話(それは)休題(さておき)、

本書はイデオロギーの異なる二つの超大国で、困難を乗り越えて宇宙(コスモ)飛行士(ノート)に選抜されるまでの著者らの生い立ちに始まる。
57年10月人工衛星スプートニックの偉業により宇宙時代の幕開けを先にソ連に告げられた米国民は、人類を月面に送るというケネデイ大統領のビジョンに喝采した。
60年代初頭、ソ連はセルゲイ・パブロビッチ・コロリョフの強力なリーダーシップのもと、史上初の人工衛星や動物の宇宙飛行と快挙を連発し世界を驚愕させた。61年には有人飛行に成功、ユーリ・ガガーリンは人類初の宇宙飛行士となった。ボストーク3号は地球を64周し4号とランデブーをした。62年6月には初の女性飛行士テレシコワが「私はカモメ」と宇宙より発信し、2度目のランデブーを成功させた。

この時点で米国の宇宙事業は大きく遅れをとっていた。米海軍のバンガードロケットは地上数メートルで爆発してしまい、有人飛行でも後塵を拝した。62年秋、ケネデイはケープカナベラル発射場とマーシャル宇宙センターで開発中のサターンロケットを視察しフォン・ブラウン博士と会ったのちテキサスでかの有名な演説をおこなった。「一丸となって取り組もう、リードしょうではないか! 〜60年代が終わる前に我々は月面に到達し無事に生還するだろう〜必ず期間内に勝利をおさめようではないか!」実はこの時、ケネデイは詳しい説明をうけていた。米国が先んじているのは慣性誘導システムでソ連よりはるかに正確で軽量で、この分野でなら全体主義社会より自由主義が優れていることを証明できると確信していたのだ。翌年、同じテキサスで大統領は暗殺されたが米国民は遺志を継ぎ宇宙開発を加速させた。ジェミニと続くアポロ計画は全て月に行くための前準備だった。

著者の1人、ソ連のレオーノフは65年エアロックを備えたボスポート2号で人類初の宇宙遊泳を行った。直前の無人の1号は発射時爆発でデーターは全て失われ、ぶつけ本番のミッションとなった。軌道上では45分に一度、昼と夜が巡ってくる。日の出は壮大で想像を絶する美しさだ。彼がエアロックから出ると丁度、地中海上空で左にはギリシャやイタリアが右には雪におおわれたボルガ川が横たわっていた。この模様は生中継され宇宙空間でブレジネフ書記長から直接祝意を受けた。しかしエアロックへ戻る頃には宇宙服が膨張して動きが取れなくなっていた。彼はとっさの機転で酸素を減圧して難を逃れ船内に戻った。大気圏再突入では大きくコースを逸れシベリアの森に不時着し二日間野宿した後、救出されモスクワでパレードが催された。

その頃、米国もジェミニ3号から始まる有人計画に入り、スコットもジェミニ8号でランデブーとドッキングを成功させた。66年4月、いよいよアポロ計画がスタートした。しかし、1号の訓練中船内火災でクルー全員が死亡した。一方、順調に行っていたソ連の宇宙計画も牽引者コロリョフの急死を機に一転し暗雲が立ち込めた。無人探査船『ルナ』の月軟着陸には成功したが有人計画ではソユーズ1号が帰還中パラシート事故により3名の乗員を失った。

68年は両国の節目の年になった。
ソ連は11月に無人のゾドン6号を打ち上げ、月を周り月の地平線に半分だけ見える地球の衝撃的な写真を送って来た。一方、アポロは7号からの有人飛行が決定した。米国は12月に有人のアポロ8号で月の裏側をまわり初めてリードを奪ったのだ。翌69年、スコットの乗ったアポロ9号の成功(月軌道で着陸船の引き出し・切り離し・ドッキング)で勝敗はハッキリした。この年ソ連は2回の打ち上げに失敗、開発者のコロリョフも今はなく改善が成されないまま頓挫した。そして7月に冒頭のアポロ11号の偉業は成されたのだ。
スコットは15号の船長に指名され月面車で本格的地質調査を成功させた。この時彼は月面で金属ハンマーと鳥の羽を落下させた、2つは同時に地面に到達しガリレオ・ガリレイの法則が正しいことを証明した。
70年代米ソは宇宙ステーション開発に乗り出し、75年7月遂にアポロとソユーズは宇宙でドッキングした。レオーノフはこの時船長を務め空軍少将に昇進した。80年代、90年代とソ連の宇宙事業は経済状態のために縮小され、残されたのは15ヶ国100人飛行士により数々の無重力下での実験が行われた宇宙ステーション“ミール”だけだった。奇しくも時は“2001年”、ミールは資金難のため大西洋に炎に包まれ落下し、スペースシャトル“チャレンジャー”は爆発、と惨事が重なった。

今まで月面を歩いた人間、いわゆる「月面歩行者(ムーンウォーカー)」は12人。その1人スコットはNASAを退任後、飛行センターの所長になりシャトルのテスト飛行にも係わった。現在は民間会社を起し宇宙開発のアドバイザーを努めている。彼が手がけたトム・ハンクスの映画「アポロ13」はリアルだが夢のある作品だ。実際、月への航行中液体酸素が爆発し外壁板が損傷、CO2濃度も致死量まで上がり、指令船の電力は喪失し再突入の限界量に。月の周回航行と地球への帰還中3人の乗員は2人用月着陸船アクエリアスへ避難し節電のため、寒さと不眠で発熱した。再び凍った指令船の動力とコンピューターを起動し手動噴射で角度を修正し大気圏に突入した。通信は4分以上途絶え絶望視されたが奇蹟的に生還した。
米ソの勝敗はともかく宇宙開発は今でもアルミ箔3枚の薄壁で暗黒の危険と背中合わせだ。大きなビジョンや巨費も無くなりフロンティアの夢から現実に引き戻された人類は何処へ向かうのだろう―――。

―月面で真白く焼かれたあの夏、僕は耳の後ろのリンパを大きく腫らし熱を出した。東京に連れて戻されるのを恐れて母に黙って “流れるプール” を壊れたアポロの様に何度も周回し、なすがまま漂っていた。“That's one small step for man(一人の人間には、小さな一歩でも、),
今でも,夏になると朦朧とした頭にタイムラグのある割れた声が響く。
―One giant leap for mankind(人類にとっては、偉大な一歩である。).”
ほどなく発覚し病院に引きずって行かれ首に太い注射を2本も打たれた。
“My misson completed(僕の 任務も 完了した。).” ---!?

アポロとソユーズ―米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実

アポロとソユーズ―米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実