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33年間守られた情報源、20世紀最大の謎!ニクソン大統領を追いつめたスキャンダルのリークは誰が?今や代名詞ともなった「ディープ・スロート」はFBIの中枢にいた!?

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2005 World Seriesの出場を目前で逃がしたヤンキースを呪ってか! ? 10月、 NYはバケツを引っくり返したような雨が降り続いた。East Sideの大学からのTAXIがなかなかつかまらない。業をにやして歩き出し、何台か客の乗った車をやり過ごすと、女性ドライバーの白タクが「どこまで?」と近づいて来た。「UNプラザの近く」私が答えると「10ドルでどう?」、私は「7ドルで」朝の相場を持ち出すと「こんな日なんだから!その代りチップはいらない」私は得心して雨を払って乗り込んだ。何かあっても女1人ぐらい蹴り倒して降りられると内心思ったが――彼女の二の腕は私の3倍はあった――! ?  
           
    
閑話休題、1970年代日本でもロッキード事件などの疑獄事件がおこった。事件記者が政財界の巨悪を暴き、ブンヤの執念とペンの力がその権力を失墜させるさまが紙面を賑わした。しかし、単なる”スッパ抜きのゴシップ“にしないため、他紙や当局との駆け引きのなか、複数の裏を取る手堅さや、発刊と締め切りのタイミングを計るスリルは、ウォーターゲート事件で《NYタイムズ》や《ポスト》紙が演じた役割に勝るものはない。
FBIは当時エドガー・フーバーに牛耳られていた。彼はケネディー大統領時代に定年を理由に罷免されかけたが当の大統領は暗殺され、後の大統領たちは彼を恐れ終身長官にした。「カリスマ、暴君」の異名を取りスキャンダルもあるが、国家、憲法、人権に対する忠誠は人一倍強く、局内では実務面で高く評価されていた。(第二次大戦時、日系人強制収容に反対した高官は彼だけだった。)
――1972年5月、FBIの巨人が急死した。ニクソンは混乱に乗じ子飼のパット・グレイを局外から長官に任命した。これに異を唱える局員が多かったことは容易に推測できる。――まさにその時期に、手術用手袋を、し盗聴器を持った賊がウォーターゲートで捕まったのだ。
著者ウッドワードは同僚バーンスタインと不眠の取材を始めたが確証が得られない。そこで彼は、海軍時代ホワイトハウスの待合室で偶然同席したのが縁でなかば一方的にこの目上の紳士に電話を入れたのが始まりだった。当時のFBIの機密メモに“F”のサインを残す副長官マーク・フェルト(通称ディープ・スロート)その人だ。この時は烈火のごとく怒り人前での連絡を禁じたが、大戦時米国で対独スパイ網の防諜活動をしていたフェルトは別の連絡法を指定してきた。
会いたい時は、アパートのバルコニーの赤旗のさしてある植木鉢をなかに引っ込め、フェルトから連絡を入れる時は、著者が取っているNYタイムズの朝刊の20頁の番号を丸で囲むことに決まった。会合は深夜、非常階段から出て、車は使わずに近くのホテルからTAXIに乗り、数ブロックで2台目に乗り換え、必ず指定場所の手前で降り、徒歩で地下駐車場の最地下まで1人で来るよう念を押された。決まってフェルトは先に来ていて暗闇でタバコを吸っていて、癖のある灰色の髪を梳かしつけ、万事お見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべていた。


やがてニクソン側の情報漏洩封じの圧力が高まると、フェルトは身の危険を感じ「そちらの判断でやってもらうしかない」と、秘密資金の存在の確認を曖昧にし「我々の友情を取り違えないでくれ」と忠告し去った。 
仕方なく著者らは、大統領の元金庫番の重い口を開かせた、「この言い方で勘弁してくれ、支障はない大陪審では全てを話した」と。翌朝の《ポスト》の見出しは『ニクソンの主席補佐官が秘密資金に関与!!』だ。しかし、大陪審ではその手の質問は一切出なかったのだ、したがって秘密資金の証言などしていないと先方の弁護士が発表した。彼らは、してやられた!大魚を取り逃し、ホワイトハウス上層部は依然無傷で、ニクソンは再選された。
それでも、疑惑の渦は収まらなかった。翌1973年4月FBIのグレイ長官がウォーターゲートの記録書類を焼却した事が露見し辞任したのを皮切りに、マスコミ封じを担当した大統領法律顧問が解任され、2人の大統領補佐官と司法長官までもが辞任をせまられた。


著者はこの年の暮れに、俳優ロバート・レットフォードからの激励と、ジャーナリズムに携わる者の視点で書くと言う発想を得て『大統領の陰謀』を書き終えた。彼は翌年の刊行後、すでにFBIを引退したフェルトに思い切って1度だけ電話をかけたことがある。著者からと解ると黙って電話を切られた。「今でも受話器を叩きつける音と後の発信音が耳に残っている、どんな言葉を耳にするより電話を切られたのがこたえた。」と告白している。
ニクソン辞任、本の映画化、裁判、そして80年代レーガン政権による特赦。何度となく詮索する記事や論文が出たが、著者は情報源を守るため、フェルトはFBIの名誉や家族の安全のため、お互いに守秘義務を貫いた。
身の危険のある極限状況で33年間沈黙を貫くのは並大抵の事ではない。彼らは連絡することもなくお互いの気持ちを知るすべもなく、静かな沈黙の時代が過ぎた。
フェルトは現在91才で認知症のためニクソン時代の記憶はほとんど欠落している。5年程前、著者は意を決し娘と暮す彼に会に行った。記憶がないことをわびるフェルトに「でも力を貸して下さって、そのために危険をおかしたんですよ」、一瞬フェルトは地下の暗闇のときの目で「そう言われると嬉しいね」とつぶやいた。
気の晴れた著者が本書の草稿を書き始めた頃、「ディープ・スロートは私だ。」というフェルトのコメントを、永年、真実を知らされなかった家族と弁護士が雑誌に発表した。著者は没後まで公表を控えようと考えていたが、“本人の名誉のため”本書はここに刊行された。


――「今年は女性ドライバーに縁があるな、共通してケータイ好きで運転中でもおかまいなしだ」無事NYでの宿にたどり着いた私はふと前に出掛けた観光地での車中を思い出した。 “ 〜Yes Dr ---- . I call again.”       
ひとしきり話して彼女はケータイを置いた。「悪い知らせ?」話の内容を小耳に挟んだ私は聞いた。彼女の男兄弟が脳腫瘍で担当医と治療について相談していたのだと「タバコも吸わないのに父親も肺ガンだった。私は大丈夫だが男たちは皆、ガンになるの」私は「そう、遺伝なのかな〜」と励ましにもならない答えをした。
近くに観光用ヘリポートが見えた、渓谷や火山流はココの名物だ。「いくらぐらいかな?」と聞くと、「2~3時間のツアーで300ドル位」私は「高すぎるネ!」と笑った。彼女も笑ったが暫く黙ってから、こう付け加えた。
“ -----But、Life is short――.”33年の沈黙も、
一瞬の沈黙も、それぞれに、深い意味がある―――。

ディープ・スロート 大統領を葬った男

ディープ・スロート 大統領を葬った男