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『動的平衡』 Dynamic Equilibrium

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生命とは!? 小生はM.J(マイケル・ジャクソン)の訃報を聞いた深夜、 SF映画攻殻機動隊」注をみていた。企業探査・情報収集を目的とした情報システムProject 2501は組織や個人のコンピューターに侵入する。ヒトはこれをバグと認識し分離してハードBodyに移したためネット界で急速に増殖し、やがて擬態を操る謎のハッカー人形使い”として事件をおこし捕まる。“人形使い”はAI(人工知能)ではなく情報の海で発生した一生命体だとして亡命を希望するが当局は自己保存のプログラムにすぎないと拒絶する。すると「人類のDNAも自己保存のプログラムにすぎない!生命とは情報の流れの中で生まれた結節点のようなものだ。種としての生命は遺伝子という記録システムをもち、ヒトはただ記憶によってのみ個人たりうる、たとえ記憶が幻の同義語であったとしても――」と、そして 「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、人類はその意味をもっと真剣に考えるべきだった」と反論する。


閑話休題― ヒトは記憶によって生きる。“モノより思い出”とはよくいったものだ。本書の冒頭でもDNAの構造を解明したノーベル賞学者クリックが、最後に取り組んだ研究は“意識のメカニズム“。かつては脳内に記憶物質があり磁気テープのように収められていると考えられていたが、体内のすべての分子が合成と分解の流れの中(動的平衡)にありシェーンハイマーはアイソトープ(同位元素)を使い食べ物がまたたくまに身体の構成分子になり、次の瞬間にはそれが身体の外に出ていくことを動物実験で発見した。脳細胞も例外ではなく代謝の流れの中にあり記憶は物質に収められているのでなく細胞が織りなす星座のような神経回路がつかさどり細胞が入れ換わってもそこにあるとされている。


17世紀のフランスの哲学者デカルトは生命現象がすべて機械的に説明できると考えその後、デカルト主義者たちは進んで解剖を行った。この考えは今も医学の延長線上にある生命を解体し部品交換(移植)し、発生を操作し遺伝子に特許を取り、臓器を売買し細胞を操作する。ES細胞の先陣争いも、死の定義づけも機械論的だ。
著者はこのモノ的あつかい物理的数学的思考は現在、制度疲労に陥っていると考えている。生命はその物質的構造体、構成分子に依存するのではなく“動的な平衡状態にあるシステム”で“モノ”でなくその流れがもたらす“効果”であり、環境にある分子は生命体の中を通り抜けまた環境に戻る流れのなかにあり“平衡状態にあるネットワーク”であると。だから時の流れに逆らうアンチエイジング、細胞や個体の死にあらがう再生治療、遺伝子治療も大循環の平衡を乱しロハス(Lifestyles of Health and sustainability)な思考ではではないと説いている。


本書の中では、生命を定義するいくつかの要素があげられている。30〜50nmのウイルスの発見は生物の概念に大きな修正を迫った。?細胞質をもたないタンパク質と核酸からなる粒子である。?細菌より上位の生物はDNAとRNA両方持つがウイルスはどちらかしかもたない。?細胞は2倍体で指数関数的増殖だがウイルスはコピーがコピーをつくる。?他の細胞に寄生した時のみ増殖し自分でエネルギーを作れない。
栄養を取らず排せつもしない(代謝をしていない)。普通に考えればただの核酸とタンパクの複合物質にすぎない、しかし驚異的繁殖をなし細胞表面に取り付き核酸を侵入させ細胞内で増殖し膜を破り次の獲物に取り付く。 
21世紀に入りさらなる強敵があらわれた、狂牛病の原因スクレイピーだ。30分煮沸しても2か月凍結しても死なず薬品にも抵抗性が強い。遠心分離でも沈澱しないほど小さくワクチンが作れない。この病原体の大きさは最少のウイルスの1000分の1(5万程度の分子量)で核酸を持たない。今までの常識、すべての生物は自己複製のための核酸をもちDNA=>RNA=>タンパク質の流れのドグマのなかにある---は、否定されることになる。97年にノーベル賞を受賞したプルシナーはこの病気の原因は“プリオン”とよばれるタンパク性の感染粒子(Proteinaceous Infectious Particle)の異常型で、これが感染し正常型プリオンを変性させることがメカニズムであるとした。 
しかし謎は残る、異型プリオンを精製して健康な動物の脳に入れても感染せず、すり潰した脳を直接入れたときのみ発症するのだ。これは何を意味するのか!?多くの細菌を発見したコッホの3原則注に反する。生命の遺伝情報やタンパク合成をつかさどる核酸を持たない増殖タンパクは生命体と定義できるのか?詳しくは著者の別書をご参照あれ。


――ロンドン公演を控えたM・Jには、大量の映像と音楽情報、そして3人の子供が遺された(誰の遺伝子かは知らないが‐‐)。
冒頭のSF映画のエンディング “人形使い”は「自分は生命体としては不完全だ、種を得るという基本プロセスがない」と語りだす。コピーは残せるがコピーは所詮コピーにすぎず個性や多様性がないので、たった一種類のウイルスで全滅する。より強く存在をするためには、複雑・多様化しつつ時にはそれを捨て、細胞代謝を繰り返し生まれ変わりつつ老化し、そして死ぬ時に大量の経験情報を消し去って遺伝子だけを残し世代交代しリセットするのも、破滅に対する防御システムだと。
そして“人形使い”は多様性を得て破局を回避するため、ある行動を起こすのだった。作品の哲学は映画“イノセンス“に引き継がれている。ヒトは思考のみによって自己たりうるのならSFでなく今後の生命科学にも死も含めた哲学が必要と思うのは時期尚早だろうか――“Beat It !からThis is Itへ”たとえ、命もまた幻の同義語であったとしても―!?

クインテッセンス出版 書評より

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

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